ルングターゼ視点「保身のための根回し」 香月美夜
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こちらはドラマCD2に付く特典SS「領主候補生としての生存政略」の冒頭部分に当たります。 ・長くなりすぎて収まりきらなかった ・前提となる情報がないとドラマCDのSSがわかりにくい 上記の理由からドラマCDの特設サイトと「小説家になろう」のSS置き場に掲載しています。 おまけSSを読む前にこちらに目を通してくださった方がわかりやすいと思います。
ルングターゼはダンケルフェルガーの第二夫人の娘で、ラオフェレーグの妹。 こちらの「保身のための根回し」は1巻の時間軸のお話になるので、今の時点で読んでも本編2巻のネタバレはありません。
「ルングターゼ様、貴族院のコードハンツから報告書が届きましたよ。本日と明日はこちらの対処が課題です。しっかりご覧ください」
ダンケルフェルガーの領主候補生であるわたくしの貴族院入学は来年です。その時に上級生となる学生の側近達は先日貴族院に向かいました。彼等はそこで見聞きしたことを報告書という形で日々送ってきます。学生の側近見習い達にとっては情報収集と報告書作成の練習なのです。報告書は城にいる成人の側近達が添削し、どのような情報を必要としているか、気を付ける点などが伝えられます。 わたくしにとっては貴族院で側近見習い達を使って他領の情報収集と対処を行う練習です。貴族院へ行く際は筆頭側仕え一人しか成人している側近を連れて行けないので、入学前に対応をよく学んでおくように言われています。
筆頭側仕えのデルミーラが差し出した木札を手に取り、わたくしは目を通しました。学生が城から寮に移動したけれど、まだ貴族院の講義は始まっていない時期なので大した報告はないでしょう。そう思いながら報告書に目を通したわたくしは信じられない報告に眩暈を感じました。 そこには「皆が揃っている食堂でラオフェレーグ様がハンネローレ様に求婚しました。ディッターとハンネローレ様を次期領主にするためだそうです。即座に断られていましたが、婚約者候補……ひいては二人の主であるレスティラウト様の不興を買ったと思われます」と書かれていました。
お兄様とわたくしは第二夫人の子です。第一夫人であるジークリンデ様の子であるレスティラウト様やハンネローレ様の異母弟妹に当たりますが、派閥が違うため仲が良いとは言えません。 特に、二年前のディッターで第一夫人の子に瑕疵がついてからは、派閥の貴族が「第二夫人の子の方が次期領主に相応しいのでは?」と言い出した上に第二夫人であるお母様が調子付いたため、溝が深くなっています。その状況でお兄様がハンネローレ様に求婚するなどあり得ないでしょう。
「お兄様は一体何を考えて……?」
派閥の関係だけではありません。お兄様は貴族院入学前に一度上級貴族に落とされかけたことがあります。領主候補生に必要な素養がないとお父様に判断されたのです。けれど、お母様は「ジークリンデ様のお子様に汚名返上の機会が与えられたようにラオフェレーグにも機会を……」と願い出ました。領主候補生に対する扱いは公平にすることを念頭に置いているお父様は、お母様の願いを受け入れました。そのため、お兄様は領主候補生として貴族院へ行ったのです。
……公平など必要ありませんでしたわ、お父様。
上級貴族と養子縁組して騎士見習いを目指す方がよほどお兄様の気質には向いていますし、貴族院に入って他領の方々に広く顔と名前が知られる前に上級貴族と養子縁組する方がよほどお兄様のためだったのではないでしょうか。領主候補生として他領の者達にも知られた状態で上級貴族に落とされるなど、周囲からの目や噂の数々は非常に屈辱的なものになりますし、他領の方も対応に困ると思います。
継承の儀式にさえ連れていけないと判断されるほど領主一族として不足しているお兄様に機会を与えたところで意味がありません。おそらく専門コースに分かれる三年生までには上級貴族に落とされるとわたくしは予想しています。
「きっと領主候補生の立場に固執したお兄様が今後も領主一族で居続けるために求婚したのでしょうけれど……」
お兄様はあまりにも浅はかなのです。お父様が貴族院入学前にお兄様を上級貴族に落としてくれていたら、このように頭の痛い思いをしなかったのに……と恨みたくなりました。 ハンネローレ様は本物のディッターに参加して汚名を雪ぎ、女神の化身の親友として注目を集めるようになったのです。ハンネローレ様の性格はダンケルフェルガーの領主候補生として内向的すぎると言われていますし、恋心に振り回されていることで評価は下がりがちですが、元々武に長けた方ですし、成績も優秀です。四歳も年下で領主候補生の素質に欠けるお兄様なんて歯牙にもかけなくて当然です。 ハンネローレ様は即座に断ったようですけれど、もしお兄様がその対応に納得して引き下がらなければ大変なことになります。冗談や一時の気の迷いでは済みません。婚約者候補を決めたお父様の意向に背いたことになりますし、すでに礎の魔術を継承した次期領主であるレスティラウト様の不興を買うことに繋がるのですから。
……お兄様の側近達はきちんと止めてくれるのかしら?
彼等はどちらかというとお兄様を見限っている節があります。お兄様を上級貴族に落とす絶好の機会と考える可能性が高いでしょう。わたくしは血の気が引くのを感じました。お兄様の常識外れの度合いによってはお母様やわたくしにも累が及ぶのです。
「デルミーラ、お母様がお兄様の馬鹿げた求婚をご存じなのかすぐに確認してくださいませ」
結論を述べると、お母様こそがお兄様に入れ知恵した元凶でした。お母様の派閥で良い思いをしてきた貴族は、レスティラウト様の次期領主を阻止したいのでしょう。「女神の化身であるローゼマイン様の親友であるハンネローレ様を次期領主にした方がよい」と主張し、「そのためには領主候補生であるお兄様を婿にすれば……」と唆したようです。
デルミーラに問われたお母様は「ラオフェレーグを領主候補生に残すためです。あの子にアウブは無理でもハンネローレ様の婿ならばなれるでしょう。ハンネローレ様は武に長けた方ですし、男の子の腕白で可愛いところも喜んで受け入れてくれますよ」と言ったそうです。
……本当にそうなのでしょうか?
お母様の感覚がわたくしには本当にわかりません。お兄様を可愛いと思ったことなんて一度もないのです。今回の求婚もわたくしに累が及びそうな愚かな行為をしないでほしいとは切実に思いますが、可愛いとは全く思えません。
……とうとう決断の時でしょうか。
わたくしやお兄様は「第一夫人であるジークリンデ様やその子に媚びるのではありません」と言われてきました。今までは母親の言葉ですし、洗礼式を終えてすぐにお二人に瑕疵がつきましたし、母親の意を受けた側近が周囲にいるのである程度受け入れているように見せてきました。 個人的には次期領主になったレスティラウト様や女神の化身の親友として知られるようになったハンネローレ様と親しくなる方がよほど有益だと思うのですが、挨拶など必要以上の交流をしていません。
……ここでお母様やお兄様を切り捨てる覚悟をしなければ、わたくしもお兄様と一緒に領主一族から外されかねないでしょう。
わたくしは木札から顔を上げて、周囲にいる側近達を見回しました。筆頭側仕えのデルミーラはお父様が付けてくれましたが、成人している側近の何人かはお母様が選んだ者達で、お母様に日々の報告をしています。まだ彼等にわたくしの決断を知られるわけにはいきません。
トンと軽く右手の人差し指でテーブルを叩き、デルミーラに注目を促すと、テーブルの下に降ろしていた左手の親指と人差し指で円を作ってから、グッと拳を握りました。合図に気付いたデルミーラが無言で盗聴防止の魔術具を左手に握らせてくれます。
「いくらお兄様を将来的にも領主一族に残したいからといって、お兄様に求婚させてハンネローレ様を次期領主に推すなど愚かにも程があります。デルミーラ、お父様に報告を。お母様とお兄様を切り捨てる覚悟ができました、と」
数日後、わたくしはお父様に呼び出されました。
「筆頭側仕え以外は退室せよ。護衛騎士も騎士団長だけでよい」
お母様の息がかかった側近を排し、わたくしと向き合ったお父様は軽く息を吐きました。
「報告されたラオフェレーグの求婚だが、ハンネローレは全く相手にしていない。あれの空回りで終わるだろう。おそらく誰もあの求婚を本気で取り合うことはない」 「えぇ、わたくしもハンネローレ様が真面に受け止めるとは考えていません。けれど、ここで何の手も打たなければわたくしに累が及ぶのは間違いありませんもの。もう口を閉ざして受け流し、傍観できる時期は終わりだと感じたのです」
わたくしの意見に、お父様は「なるほど」と言いながらゆっくりと顎を撫でました。
「だが、まだラオフェレーグだけを上級貴族に落とせば何とかなる範囲だ。其方からライヒレーヌを完全に切り捨てることはない。少々極端すぎるな」
お父様の中でお兄様を上級貴族に落とすことは決まっているようですが、お母様の扱いは未定のようで、わたくしの決断は性急すぎると言われてしまいました。しかし、わたくしはここでお父様の言葉を易々と受け入れて傍観する気はありません。わたくしはニコリと微笑みました。
「まだ、とお父様はおっしゃいますけれど、お兄様の考えなしの行動がこれだけで終わるはずがありません。先に根回しをしておかなければ事が起こってからでは遅いでしょう? お父様、仮にお兄様が何をやらかしてもわたくしに累を及ぼさず、守ってくださると今の内にお約束くださいませ」
わたくしが保証を求めると、お父様は情報を求めるアウブ・ダンケルフェルガーらしい厳しい表情になりました。
「……ルングターゼ、それほど性急さを求めるなど、何か兆候があるのか?」 「いいえ、今のところはまだ……。でも、お兄様を領主候補生に残すためならば、お母様はきっと何でもします。今回のようにわたくしに累が及ぶことなど、ほんの少しも考えないでしょう」 「さすがにライヒレーヌがそこまで愚かではないと思いたいが……」
お父様は領主らしい領主だからこそ、全く領地のためにならない自分の欲のままに動く領主一族の言動など予想できないのかもしれません。しかし、わたくしは知っています。本物のディッターに参加することでレスティラウト様とハンネローレ様が汚名を雪いだというのに、あの時に見た分不相応な夢をお母様は未だに手放そうとしないのです。
「わたくしの決断をお父様は極端だとおっしゃいました。けれど、わたくしはこの期に及んでお兄様を領主一族に残そうと画策するお母様のことを領主一族失格だと考えています。何より、突然お兄様が貴族院で意味のわからないことをした時に、血族の括りで巻き込まれたくございません。お母様やお兄様の失態でわたくしに累が及ばないようにお約束くださいませ」
わたくしが訴えると、お父様は「ふぅむ……」とゆっくり顎を撫でました。その目から明らかに面白がっていることがわかります。
「それにしてもライヒレーヌの言うまま、それで良いのではありませんかと常に受け流していた其方がこれほど大胆な行動に出るとは……。レスティラウトから聞いていたが、なかなか面白いものだ」
レスティラウト様がわたくしのことでお父様に報告しているとすれば、あの時のことでしょう。ディッターで瑕疵がついて、お兄様やわたくしを次期領主に言い出した貴族達が出てきた頃のことです。わたくし達の訓練を見ていたレスティラウト様に呼び止められたことがありました。
「ルングターゼ、其方はそれで次期領主を目指すつもりか?」
わたくしはハンネローレ様ほど武に長けていませんし、お兄様は体を動かすのが好きなだけで頭を使って訓練をしているわけではありません。レスティラウト様はわたくし達に王の剣になる素質が足りないと指摘しました。
……貴方に言われたくありません。
お母様が張り切っているだけです。わたくしは別に次期領主を目指しているわけではありません。巻き込まれているわたくしは、次期領主に内定して教育を受けているレスティラウト様が不甲斐ない真似をしたせいで周囲が騒がしくなったと反論したくて仕方がありませんでした。調子に乗ったお母様も派閥の貴族達の期待も本当に迷惑なのです。
「……次期領主が不甲斐なければそうなりますね」
貴方がしっかりしないせいで面倒臭い状況になったのですよという八つ当たりを込めて微笑むと、レスティラウト様は軽く眉を上げて面白がるように笑みを浮かべました。まさに今、面白がっているお父様とそっくりの表情でした。
「お父様がレスティラウト様からどのようなお話を聞かれたのか存じませんが、わたくしは保身が大事なのです。お母様はお兄様のことを守っても、わたくしを守ってくださるとは限りませんから」
わたくしはプイッとお父様から顔を逸らしました。
「なるほど。其方の危機感と覚悟は受け取った。ジークリンデにも話を通しておく。子供部屋ではジークリンデの派閥の子と交流を持ち、冬の終わりには側近に召し上げられるように根回しを始めよ。ただし、ライヒレーヌとその周囲に気取られるな」
お母様の息のかかった側近達の動向によくよく気を付け、わたくしの側近をジークリンデ様の派閥の貴族とゆっくり入れ替えていけということでしょう。わたくしはコクリと頷きました。
「それから、ライヒレーヌやラオフェレーグが何やら事を起こすと予想しているならば、貴族院の動向にはよくよく気を付けておけ」 「かしこまりました」
お父様から「累を及ぼさない」という言質を取ることはできませんでしたが、お母様の影響下から出ることは許可していただけました。何事もなく冬が終わり、お兄様だけが処分を受け、お母様が愚かな野望を諦めてくださればそれに越したことはありません。
ある日のこと、お父様が夕食に遅れていらっしゃいました。ダンケルフェルガーでは第一夫人と第二夫人の仲が良くないため、食堂が分けられています。よほどのことがない限り、お父様は交互に食堂を移動します。
「今日は何かございましたの?」 「あぁ」
お父様はなんとハンネローレ様に時の女神が降臨したとおっしゃいました。何が起こったのかよく理解できませんでしたが、女神の化身と呼ばれていたローゼマイン様が関与していることと、女神降臨後からハンネローレ様が意識を失っていること、そして、ハンネローレ様が第二の女神の化身と呼ばれるようになりつつあるそうです。
「ハンネローレ様の意識が戻らないなんて……」 「心配いらぬ。ローゼマイン様に教えられた対応を終えた。あとは待つだけだ」
お父様達が夕食に遅れたのは、その対応をしていたからでした。レスティラウト様のユレーヴェを運んだり、ジークリンデ様が寮に赴いてハンネローレ様の筆頭側仕えから事情を聴いたりと慌ただしかったそうです。
「ジークリンデ様は大丈夫ですか? ハンネローレ様に女神が降臨して意識が戻らないのであれば、心配でならないでしょう?」 「気丈にはしているが、おそらく……」 「お見舞いなどは許されますか?」
わたくしはチラリとお母様の様子を窺います。意見を求められていると思ったらしいお母様は心配そうな顔で首を横に振りました。
「まぁ、ルングターゼ。それほど大仰にすることではないでしょう。ローゼマイン様が対処方法を教えてくださったのでしたら、意識が戻るのは確実なのですから。あまり手間を取らせるものではありませんよ」
お見舞いをきっかけにジークリンデ様と交流を持ちたいと考えていたのですが、お母様や側近達の目があると接触も難しそうです。
「……お父様、ジークリンデ様にわたくしからのお見舞いの言葉だけでも届けていただけますか?」 「わかった。其方が心配していたと伝えておこう」
お父様が請け負ってくださったので、わたくしはそっと胸を撫で下ろします。上手くいけば、ジークリンデ様からお見舞いの言葉に対する反応をいただけるでしょうし、ハンネローレ様が目覚めた後にもう一度声をかける機会ができるでしょう。
「ハンネローレに関しては待つだけでよい。だが、他領の動きは別だ。第二の女神の化身と言われるようになったハンネローレと繋がりを持ちたがる者達がそれぞれに動きを見せるだろう」
わたくしはジークリンデ様達が大変な時に余計なことをしそうなお母様に目を向けました。表情だけはお母様も心配そうですが、お母様の濃い紫色の瞳は歓喜に満ちているように見えます。何か企んでいるようにしか見えません。
「これからは更に目を光らせなければならぬ。ルングターゼは今まで以上に情報収集を怠らぬように」
わたくしはお父様と視線を交わし合い、小さく頷きました。
……ここで妙なことをしたらお兄様だけではなく、お母様も累が及んで処分を受けますよ。
わたくしはお母様に心の中で忠告しましたが、それを声に出すことはありませんでした。お母様にダンケルフェルガーの領主一族に相応しい言動ができれば、累が及ぶことなどないでしょうから。
「本好きの下剋上 ハンネローレの貴族院五年生」ドラマCD2特典SSの追加パート
ルングターゼ視点「保身のための根回し」 香月美夜
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こちらはドラマCD2に付く特典SS「領主候補生としての生存政略」の冒頭部分に当たります。
・長くなりすぎて収まりきらなかった
・前提となる情報がないとドラマCDのSSがわかりにくい
上記の理由からドラマCDの特設サイトと「小説家になろう」のSS置き場に掲載しています。
おまけSSを読む前にこちらに目を通してくださった方がわかりやすいと思います。
ルングターゼはダンケルフェルガーの第二夫人の娘で、ラオフェレーグの妹。
こちらの「保身のための根回し」は1巻の時間軸のお話になるので、今の時点で読んでも本編2巻のネタバレはありません。
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「ルングターゼ様、貴族院のコードハンツから報告書が届きましたよ。本日と明日はこちらの対処が課題です。しっかりご覧ください」
ダンケルフェルガーの領主候補生であるわたくしの貴族院入学は来年です。その時に上級生となる学生の側近達は先日貴族院に向かいました。彼等はそこで見聞きしたことを報告書という形で日々送ってきます。学生の側近見習い達にとっては情報収集と報告書作成の練習なのです。報告書は城にいる成人の側近達が添削し、どのような情報を必要としているか、気を付ける点などが伝えられます。
わたくしにとっては貴族院で側近見習い達を使って他領の情報収集と対処を行う練習です。貴族院へ行く際は筆頭側仕え一人しか成人している側近を連れて行けないので、入学前に対応をよく学んでおくように言われています。
筆頭側仕えのデルミーラが差し出した木札を手に取り、わたくしは目を通しました。学生が城から寮に移動したけれど、まだ貴族院の講義は始まっていない時期なので大した報告はないでしょう。そう思いながら報告書に目を通したわたくしは信じられない報告に眩暈を感じました。
そこには「皆が揃っている食堂でラオフェレーグ様がハンネローレ様に求婚しました。ディッターとハンネローレ様を次期領主にするためだそうです。即座に断られていましたが、婚約者候補……ひいては二人の主であるレスティラウト様の不興を買ったと思われます」と書かれていました。
お兄様とわたくしは第二夫人の子です。第一夫人であるジークリンデ様の子であるレスティラウト様やハンネローレ様の異母弟妹に当たりますが、派閥が違うため仲が良いとは言えません。
特に、二年前のディッターで第一夫人の子に瑕疵がついてからは、派閥の貴族が「第二夫人の子の方が次期領主に相応しいのでは?」と言い出した上に第二夫人であるお母様が調子付いたため、溝が深くなっています。その状況でお兄様がハンネローレ様に求婚するなどあり得ないでしょう。
「お兄様は一体何を考えて……?」
派閥の関係だけではありません。お兄様は貴族院入学前に一度上級貴族に落とされかけたことがあります。領主候補生に必要な素養がないとお父様に判断されたのです。けれど、お母様は「ジークリンデ様のお子様に汚名返上の機会が与えられたようにラオフェレーグにも機会を……」と願い出ました。領主候補生に対する扱いは公平にすることを念頭に置いているお父様は、お母様の願いを受け入れました。そのため、お兄様は領主候補生として貴族院へ行ったのです。
……公平など必要ありませんでしたわ、お父様。
上級貴族と養子縁組して騎士見習いを目指す方がよほどお兄様の気質には向いていますし、貴族院に入って他領の方々に広く顔と名前が知られる前に上級貴族と養子縁組する方がよほどお兄様のためだったのではないでしょうか。領主候補生として他領の者達にも知られた状態で上級貴族に落とされるなど、周囲からの目や噂の数々は非常に屈辱的なものになりますし、他領の方も対応に困ると思います。
継承の儀式にさえ連れていけないと判断されるほど領主一族として不足しているお兄様に機会を与えたところで意味がありません。おそらく専門コースに分かれる三年生までには上級貴族に落とされるとわたくしは予想しています。
「きっと領主候補生の立場に固執したお兄様が今後も領主一族で居続けるために求婚したのでしょうけれど……」
お兄様はあまりにも浅はかなのです。お父様が貴族院入学前にお兄様を上級貴族に落としてくれていたら、このように頭の痛い思いをしなかったのに……と恨みたくなりました。
ハンネローレ様は本物のディッターに参加して汚名を雪ぎ、女神の化身の親友として注目を集めるようになったのです。ハンネローレ様の性格はダンケルフェルガーの領主候補生として内向的すぎると言われていますし、恋心に振り回されていることで評価は下がりがちですが、元々武に長けた方ですし、成績も優秀です。四歳も年下で領主候補生の素質に欠けるお兄様なんて歯牙にもかけなくて当然です。
ハンネローレ様は即座に断ったようですけれど、もしお兄様がその対応に納得して引き下がらなければ大変なことになります。冗談や一時の気の迷いでは済みません。婚約者候補を決めたお父様の意向に背いたことになりますし、すでに礎の魔術を継承した次期領主であるレスティラウト様の不興を買うことに繋がるのですから。
……お兄様の側近達はきちんと止めてくれるのかしら?
彼等はどちらかというとお兄様を見限っている節があります。お兄様を上級貴族に落とす絶好の機会と考える可能性が高いでしょう。わたくしは血の気が引くのを感じました。お兄様の常識外れの度合いによってはお母様やわたくしにも累が及ぶのです。
「デルミーラ、お母様がお兄様の馬鹿げた求婚をご存じなのかすぐに確認してくださいませ」
結論を述べると、お母様こそがお兄様に入れ知恵した元凶でした。お母様の派閥で良い思いをしてきた貴族は、レスティラウト様の次期領主を阻止したいのでしょう。「女神の化身であるローゼマイン様の親友であるハンネローレ様を次期領主にした方がよい」と主張し、「そのためには領主候補生であるお兄様を婿にすれば……」と唆したようです。
デルミーラに問われたお母様は「ラオフェレーグを領主候補生に残すためです。あの子にアウブは無理でもハンネローレ様の婿ならばなれるでしょう。ハンネローレ様は武に長けた方ですし、男の子の腕白で可愛いところも喜んで受け入れてくれますよ」と言ったそうです。
……本当にそうなのでしょうか?
お母様の感覚がわたくしには本当にわかりません。お兄様を可愛いと思ったことなんて一度もないのです。今回の求婚もわたくしに累が及びそうな愚かな行為をしないでほしいとは切実に思いますが、可愛いとは全く思えません。
……とうとう決断の時でしょうか。
わたくしやお兄様は「第一夫人であるジークリンデ様やその子に媚びるのではありません」と言われてきました。今までは母親の言葉ですし、洗礼式を終えてすぐにお二人に瑕疵がつきましたし、母親の意を受けた側近が周囲にいるのである程度受け入れているように見せてきました。
個人的には次期領主になったレスティラウト様や女神の化身の親友として知られるようになったハンネローレ様と親しくなる方がよほど有益だと思うのですが、挨拶など必要以上の交流をしていません。
……ここでお母様やお兄様を切り捨てる覚悟をしなければ、わたくしもお兄様と一緒に領主一族から外されかねないでしょう。
わたくしは木札から顔を上げて、周囲にいる側近達を見回しました。筆頭側仕えのデルミーラはお父様が付けてくれましたが、成人している側近の何人かはお母様が選んだ者達で、お母様に日々の報告をしています。まだ彼等にわたくしの決断を知られるわけにはいきません。
トンと軽く右手の人差し指でテーブルを叩き、デルミーラに注目を促すと、テーブルの下に降ろしていた左手の親指と人差し指で円を作ってから、グッと拳を握りました。合図に気付いたデルミーラが無言で盗聴防止の魔術具を左手に握らせてくれます。
「いくらお兄様を将来的にも領主一族に残したいからといって、お兄様に求婚させてハンネローレ様を次期領主に推すなど愚かにも程があります。デルミーラ、お父様に報告を。お母様とお兄様を切り捨てる覚悟ができました、と」
数日後、わたくしはお父様に呼び出されました。
「筆頭側仕え以外は退室せよ。護衛騎士も騎士団長だけでよい」
お母様の息がかかった側近を排し、わたくしと向き合ったお父様は軽く息を吐きました。
「報告されたラオフェレーグの求婚だが、ハンネローレは全く相手にしていない。あれの空回りで終わるだろう。おそらく誰もあの求婚を本気で取り合うことはない」
「えぇ、わたくしもハンネローレ様が真面に受け止めるとは考えていません。けれど、ここで何の手も打たなければわたくしに累が及ぶのは間違いありませんもの。もう口を閉ざして受け流し、傍観できる時期は終わりだと感じたのです」
わたくしの意見に、お父様は「なるほど」と言いながらゆっくりと顎を撫でました。
「だが、まだラオフェレーグだけを上級貴族に落とせば何とかなる範囲だ。其方からライヒレーヌを完全に切り捨てることはない。少々極端すぎるな」
お父様の中でお兄様を上級貴族に落とすことは決まっているようですが、お母様の扱いは未定のようで、わたくしの決断は性急すぎると言われてしまいました。しかし、わたくしはここでお父様の言葉を易々と受け入れて傍観する気はありません。わたくしはニコリと微笑みました。
「まだ、とお父様はおっしゃいますけれど、お兄様の考えなしの行動がこれだけで終わるはずがありません。先に根回しをしておかなければ事が起こってからでは遅いでしょう? お父様、仮にお兄様が何をやらかしてもわたくしに累を及ぼさず、守ってくださると今の内にお約束くださいませ」
わたくしが保証を求めると、お父様は情報を求めるアウブ・ダンケルフェルガーらしい厳しい表情になりました。
「……ルングターゼ、それほど性急さを求めるなど、何か兆候があるのか?」
「いいえ、今のところはまだ……。でも、お兄様を領主候補生に残すためならば、お母様はきっと何でもします。今回のようにわたくしに累が及ぶことなど、ほんの少しも考えないでしょう」
「さすがにライヒレーヌがそこまで愚かではないと思いたいが……」
お父様は領主らしい領主だからこそ、全く領地のためにならない自分の欲のままに動く領主一族の言動など予想できないのかもしれません。しかし、わたくしは知っています。本物のディッターに参加することでレスティラウト様とハンネローレ様が汚名を雪いだというのに、あの時に見た分不相応な夢をお母様は未だに手放そうとしないのです。
「わたくしの決断をお父様は極端だとおっしゃいました。けれど、わたくしはこの期に及んでお兄様を領主一族に残そうと画策するお母様のことを領主一族失格だと考えています。何より、突然お兄様が貴族院で意味のわからないことをした時に、血族の括りで巻き込まれたくございません。お母様やお兄様の失態でわたくしに累が及ばないようにお約束くださいませ」
わたくしが訴えると、お父様は「ふぅむ……」とゆっくり顎を撫でました。その目から明らかに面白がっていることがわかります。
「それにしてもライヒレーヌの言うまま、それで良いのではありませんかと常に受け流していた其方がこれほど大胆な行動に出るとは……。レスティラウトから聞いていたが、なかなか面白いものだ」
レスティラウト様がわたくしのことでお父様に報告しているとすれば、あの時のことでしょう。ディッターで瑕疵がついて、お兄様やわたくしを次期領主に言い出した貴族達が出てきた頃のことです。わたくし達の訓練を見ていたレスティラウト様に呼び止められたことがありました。
「ルングターゼ、其方はそれで次期領主を目指すつもりか?」
わたくしはハンネローレ様ほど武に長けていませんし、お兄様は体を動かすのが好きなだけで頭を使って訓練をしているわけではありません。レスティラウト様はわたくし達に王の剣になる素質が足りないと指摘しました。
……貴方に言われたくありません。
お母様が張り切っているだけです。わたくしは別に次期領主を目指しているわけではありません。巻き込まれているわたくしは、次期領主に内定して教育を受けているレスティラウト様が不甲斐ない真似をしたせいで周囲が騒がしくなったと反論したくて仕方がありませんでした。調子に乗ったお母様も派閥の貴族達の期待も本当に迷惑なのです。
「……次期領主が不甲斐なければそうなりますね」
貴方がしっかりしないせいで面倒臭い状況になったのですよという八つ当たりを込めて微笑むと、レスティラウト様は軽く眉を上げて面白がるように笑みを浮かべました。まさに今、面白がっているお父様とそっくりの表情でした。
「お父様がレスティラウト様からどのようなお話を聞かれたのか存じませんが、わたくしは保身が大事なのです。お母様はお兄様のことを守っても、わたくしを守ってくださるとは限りませんから」
わたくしはプイッとお父様から顔を逸らしました。
「なるほど。其方の危機感と覚悟は受け取った。ジークリンデにも話を通しておく。子供部屋ではジークリンデの派閥の子と交流を持ち、冬の終わりには側近に召し上げられるように根回しを始めよ。ただし、ライヒレーヌとその周囲に気取られるな」
お母様の息のかかった側近達の動向によくよく気を付け、わたくしの側近をジークリンデ様の派閥の貴族とゆっくり入れ替えていけということでしょう。わたくしはコクリと頷きました。
「それから、ライヒレーヌやラオフェレーグが何やら事を起こすと予想しているならば、貴族院の動向にはよくよく気を付けておけ」
「かしこまりました」
お父様から「累を及ぼさない」という言質を取ることはできませんでしたが、お母様の影響下から出ることは許可していただけました。何事もなく冬が終わり、お兄様だけが処分を受け、お母様が愚かな野望を諦めてくださればそれに越したことはありません。
ある日のこと、お父様が夕食に遅れていらっしゃいました。ダンケルフェルガーでは第一夫人と第二夫人の仲が良くないため、食堂が分けられています。よほどのことがない限り、お父様は交互に食堂を移動します。
「今日は何かございましたの?」
「あぁ」
お父様はなんとハンネローレ様に時の女神が降臨したとおっしゃいました。何が起こったのかよく理解できませんでしたが、女神の化身と呼ばれていたローゼマイン様が関与していることと、女神降臨後からハンネローレ様が意識を失っていること、そして、ハンネローレ様が第二の女神の化身と呼ばれるようになりつつあるそうです。
「ハンネローレ様の意識が戻らないなんて……」
「心配いらぬ。ローゼマイン様に教えられた対応を終えた。あとは待つだけだ」
お父様達が夕食に遅れたのは、その対応をしていたからでした。レスティラウト様のユレーヴェを運んだり、ジークリンデ様が寮に赴いてハンネローレ様の筆頭側仕えから事情を聴いたりと慌ただしかったそうです。
「ジークリンデ様は大丈夫ですか? ハンネローレ様に女神が降臨して意識が戻らないのであれば、心配でならないでしょう?」
「気丈にはしているが、おそらく……」
「お見舞いなどは許されますか?」
わたくしはチラリとお母様の様子を窺います。意見を求められていると思ったらしいお母様は心配そうな顔で首を横に振りました。
「まぁ、ルングターゼ。それほど大仰にすることではないでしょう。ローゼマイン様が対処方法を教えてくださったのでしたら、意識が戻るのは確実なのですから。あまり手間を取らせるものではありませんよ」
お見舞いをきっかけにジークリンデ様と交流を持ちたいと考えていたのですが、お母様や側近達の目があると接触も難しそうです。
「……お父様、ジークリンデ様にわたくしからのお見舞いの言葉だけでも届けていただけますか?」
「わかった。其方が心配していたと伝えておこう」
お父様が請け負ってくださったので、わたくしはそっと胸を撫で下ろします。上手くいけば、ジークリンデ様からお見舞いの言葉に対する反応をいただけるでしょうし、ハンネローレ様が目覚めた後にもう一度声をかける機会ができるでしょう。
「ハンネローレに関しては待つだけでよい。だが、他領の動きは別だ。第二の女神の化身と言われるようになったハンネローレと繋がりを持ちたがる者達がそれぞれに動きを見せるだろう」
わたくしはジークリンデ様達が大変な時に余計なことをしそうなお母様に目を向けました。表情だけはお母様も心配そうですが、お母様の濃い紫色の瞳は歓喜に満ちているように見えます。何か企んでいるようにしか見えません。
「これからは更に目を光らせなければならぬ。ルングターゼは今まで以上に情報収集を怠らぬように」
わたくしはお父様と視線を交わし合い、小さく頷きました。
……ここで妙なことをしたらお兄様だけではなく、お母様も累が及んで処分を受けますよ。
わたくしはお母様に心の中で忠告しましたが、それを声に出すことはありませんでした。お母様にダンケルフェルガーの領主一族に相応しい言動ができれば、累が及ぶことなどないでしょうから。